人格と性欲の話

今、僕を含めて10の人格が居る。そのうち、活発に活動しているのは僕とゆたかの2人だけだ。人格が分かれている場合、性欲はどうなるのか?  そういったことについて、あまり多くは語られていないように感じる。だからこそ、敢えて書いてみる。同じことで悩んでいる人がこれを読むかもしれないから。

 

まず、そらちゃんという人格が基本の人格だった。生まれた時から6才のあの夜まで、主に生活していた。あの夜以降は僕になった。そして、僕の記憶のある限りではその当時はそこまで性欲はなかったはずだ。まだ幼かったから。中学生になる直前に、トマーゾという人格が主に生活するようになった。彼は思春期ということもあり、それなりに性欲があった。その次、高校に少しだけ通った人格にもあったはずだ。しかし、その次であるゆたか兄は性欲が希薄だった。全くないわけではないが、かなり少ないようだった。

 

表にあまり出なかった人格のうち、ジョバンニという現在30歳の人格は性欲そのものを持ったことがないという。彼はもう12〜13年ほど前から居る人格なのに、だ。例えば女性の裸の画像を見ても全く興奮しないらしい。男性でもまた然り。まだ幼い僕でさえ、綺麗な女性の裸の画像を見れば多少はどきどきするというのに。

 

今は僕とゆたかの間を性欲が行ったり来たりしているように感じる。どちらかがあるときは、もう一方は全くなくなる。同時にあるということはあり得ない。いくら中身が11歳と4歳の子どもであったとしても、肉体が大人であり、恋人とセックスしていてもおかしくはない年齢なので、性欲自体はある。ただセックスをするという想像をしたことは一度もない。どちらかというと、くすぐられるとかそういう「子どもらしい」ことを想像することが多い。

 

そういえば以前このようなことがあった。月経が遅れていることを精神科で話したとき、「別人格がセックスした可能性がある」と言われた。お姉ちゃんという20歳の女性人格が疑われた。しかし、お姉ちゃんもジョバンニさんと同じく性欲が全くなかった。だからお姉ちゃん自身かなり戸惑ったし、僕も後からそれを知って驚いた。性欲が全くないのに、セックスをしたと疑われるのは心外だろう。

 

僕は性被害を受けたこともあり、性に対する嫌悪感がそれなりにある。もしも、男根も膣も子宮も乳房もない身体があるのだとしたら、それになりたいとさえ思う。もしかしたらゆたか兄に性欲があまりなかったのもそのせいなのかもしれない。ただ、ゆたか兄が消えた後に日記を見たら性的なこともいくらか書かれていた。

 

性に関する話は日本ではタブー視されがちであると感じている。しかし、僕は安全が確保できている場所、安全な人との間でならもっとオープンに語られて良いと思う。例えば僕は、母親の恋人と思春期になっても同じ布団で寝ることが異常だと知らなかった。母親の恋人にキスさせられるのがおかしいことだと知らなかった。そういったことを早くに知っていたら、と今でも思う。

 

人格と性欲に関することは興味があるので文献を探したい。

妄想

妄想に取り憑かれるとはどのような感じなのか、僕は経験したことがない。

 

妄想について書く。

 

5年ほど前、他の人格が高校に通っていた。勿論人格交代も日常的にあっただろう。他の人格を彼と呼ぶことにする。彼は男子クラスメイトに好意を抱いていた。それは恋愛的なものだったかは不明だ。因みに別の女性人格は2つ上の男子の先輩に恋していた。男子クラスメイトを、仮にAとする。Aとは学習グループ(習熟度別)で、理系だけ同じだった。週に何時間か同じ教室で勉強していたらしい。

 

僕らは当時、常に希死念慮に苛まれていた。2015年3月のある日、朝から「今日こそは死のう」と思って学校に行った。放課後にどうやって死ぬかを延々と考えていた。1時間目は体育だった。彼とAは得点板をめくる担当になった。Aとふと目が合った。Aは彼に対してニッコリ笑った。彼は、このひとを泣かせてはならないと思い自殺をやめた。側から見たら単純かもしれないけれど、彼にとってはそれで良かったのかもしれない。

 

なのに3ヶ月後の梅雨の晴れ間のある日、Aは屋上から飛び降りて死んだ。彼は深い絶望のどん底に落ちた。

 

Aのことに関して、TwitterやLINEで語ってはならないと言われた。学校はまるでAの自殺をなかったことにしたいようだった。彼はなぜそうなるのか教員に問い詰めた。「上からそう言われたから」としか返ってこなかった。

 

そこから彼の妄想は始まった。僕らが通っていたのは某大学の附属学校だった。彼は、自殺を隠蔽しようとしているのは某大学の陰謀だと言い始めた。僕にはそれを理解することができなかった。それが進行して国家の陰謀とまで言い出した。余計理解できなかった。それが3年くらい続いた。その間に大量の抗精神病薬を飲んだ。

 

そして、統合失調症だと言われた。

僕には本当に理解できなかった。国家の陰謀論になど興味はないし、考えたこともなかった。宇宙から電波を受信した覚えもなかった。幻聴も幻視も、激しいものを経験したことはなかった。強く強く空想することで、自らそれを創り出すことはあれど、コントロールは可能だった。「死んでしまえ」というような声を聞いたことは一度たりともなかった。

 

これは病気の否認だろうか。病識がないということなのか。いや、少なくとも僕という人格には、それがないというだけなのだ。

 

例えば僕は声が出なくなることがある。だから失声症だと診断された。でも、他の人格は普通に声が出る。もし他の人格が出ている時に「あなたは失声症です」と言われても意味不明だろう。だって一度も声が出なくなったことなどないのだから。それと同じなのだ。あまりにも不思議なのだ。

 

極端かもしれないけれど、あなたの中の彼という人格は統合失調症で、ゆう(僕)という人格は失声症だと言われれば理解できるのだが。

 

因みに彼の妄想は最近は落ち着いていて、その妄想を抱いていたという記憶があるかさえ定かではない。

檸檬

1ヶ月ほど前、家の近くに檸檬の木があるのを発見した。その時のぼくは死にたくてたまらなかったから、「この檸檬が収穫されたら死のう」と決意した。死に方はまだ決めていなかった。

 

それからできる限り毎日そこに通った。檸檬は少しずつ少しずつ大きくなり、色づいてきた。それと同時に自殺を決行する日が近づいているように感じた。

 

でも、檸檬を見るたびに自分の心が明るくなっていくのを感じた。生きるか死ぬか、という極端な思考が頭の中から消え失せた。冬の朝の冷たい空気が心地良く、青空が美しいと感じるようになった。世界が輝いていた。

 

この1ヶ月間。ウォークマンの中から知らなかった曲を何曲か見つけることができた。補聴器をかえて、鈴の音を10年以上ぶりに聴いた。かわいいぬいぐるみが増えた。大好きなひとに逢えた。母親と縁を切って晴れやかな気持ちになった。空想の世界がより豊かになった。文庫本を読んだ。

 

そして昨日、檸檬が収穫されたことを知った。

 

もう死ぬつもりはさらさらなかった。というより、なぜ死にたかったのか忘れてしまった。

母のこと 1

僕らは5年前に母親と縁を切った。理由は、僕らが生き残るためだった。そして今年10月に電話で久々に連絡を取った。今ならやり直せるかもしれないという淡い期待があった。でも駄目だった。母親は自分にとって都合の悪いことを全て忘れていた。人間じゃないと怒鳴り散らしたことも、ゲームにばかりお金を使ってご飯がお菓子だけになっていたことも、熱湯をかけたことも。

 

僕はストレスで顔がひきつるようになった。これはやばい、と気がついた。母親にもう関わりたくないと言ったら「私もです。記憶にないことを責められるのは辛い」と言われた。そして、別の人格がキレて全てのアカウントで母親をブロックした。

 

昨日、母親にこの人生で最後の手紙を出した。ぼくはママを守ることに必死だったこと。ママの幸せがぼくの全てだったこと。ママに酷いことを言われたりされたりしてもママを愛していたこと。でももうママを支えるエネルギーがないこと。ぼくのことはもう忘れて欲しいこと。でもぼくはママと過ごした日々を忘れないということ。ぼくは厄病神でママを不幸にするから、ママの人生から退場すること。一生関わらないでくださいということ。今でもずっと愛しているということ。コンビニまで歩いて行って切手を買って貼ってポストに投函した。ポストのなかでごん、と音がした。もう後戻りできないと思った。

 

そして僕らはまた縁を切った。もう二度と戻ることはない。

 

精神科で主治医に言われた。「今後、一生、余程のことがない限り会わないという覚悟があるんだね?」と。僕は、なけなしの勇気を振り絞って「うん」と答えた。11歳の僕に対して言っていい言葉ではないと思う。態度もかなり高圧的で怖かった。それでも「うん」と答える他なかった。

 

どうして実の母親とこんなにもうまくやれないのだろうか。僕に欠陥があるのではないかとさえ思う。だって聾学校の先生は、僕を散々最低だ、屑だと罵った。それはきっと間違ってなんかいなかった。僕は確かに最低で屑だった。ねえ、お願い、誰かそれを否定して。最低でも屑でもないと言って。心の中で叫ぶ。泣きながら叫ぶ。僕は生きる資格がないのかもしれない。死んで償わなくてはならないのかもしれない。そう思うこともある。

 

僕には一生がどれほどの長さなのかわからない。僕はまだ11歳なのだ。人生は途方もなく先へ先へと長く続いているのだ。母はもう少しで50歳になる。平均寿命を考えればあと30年ほどか。それでも、もう二度と会わないと決意したのだ。僕が僕の人生を歩むために。

 

僕はもっともっと強くならなくてはいけない。哀しいほどに強く。痛々しいと言われたって構わない。冷たいと言われたって仕方ない。だから僕は、これから先の人生を生き抜くために、重苦しい過去を背負い続けるために、強くならなくてはいけない。

 

人生とは一体何だろうと思う。人格が11にもなり、目と耳の進行性の障害があり、重度精神病患者になり、膠原病も患い、母親とは縁が切れ、消えない過去を背負わされ……なぜこれで生きていられるのかと不思議に思う。それでも、母親と縁を切った後に見た空はとても晴れ晴れとしていたのだ。あまりにも気持ち良かったのだ。幸福を感じたのだ。

 

僕は決意する。この先の人生で出会うであろう様々な人たちに、「お母さんは?」と聞かれたら即座に「いない」と答えようと。僕の中で母は死んだ。もう生きてはいない。縁を切るというのはそういうことだ。

 

強くならなくてはいけないはずなのに、涙が溢れるのはどうしてだろうか……。

とある教員のこと

ぼくらが6歳の時、聾学校に新しい教師が来た。巨体の男性だった。当時40代半ばだったろうか。厳つい顔だった。

寄宿舎に来た時はよく一緒に遊んだ。トランプとかウノとか、そんな遊びだったと思う。一見怖そうだけど悪い人ではないと当時は感じていた。先生は中学部担当だったから、寄宿舎以外の場所では接点が全くなかった。

 

ぼくらは中学生になった。先生は数学担当だった。初めは生徒が関心を持てるようにと、面白く分かりやすい授業を心がけているように見えた。ぼくは元々知っていることばかりだったから、そこまで面白いとは感じられなかったけれど。少なくともこの時点でぼくは先生のことが嫌いではなかった。好きでもなかった。

 

中学部3年生の人たちが卒業した。校長先生が替わった。厳しい男性から、優しい女性の校長になった。

 

そして、先生は豹変した。突然の出来事だった。毎日のように「お前らは最低だ」「お前らは馬鹿だ」と延々と怒鳴り散らしてきた。特に成績の悪い生徒をターゲットにしていた。ぼくは怒鳴られたないために、こころを殺されないために、勉強し続けた。抑うつで勉強どころではない時期もあったけれど、成績は下がらなかった。いっそ下がって欲しかった。下がればこの苦しみが、痛みが、憂いが表面化すると思った。

 

先生は、テストの点が悪い生徒から順番に指差して答えさせようとした。Aが一番悪かった。Aは何一つ答えられなかった。IとYは入れ替わることがあったけれど、どちらにせよ答えられなかった。そしてぼくが、R(以前の本名)と呼ばれ、指を指されて答えさせられた。答えられないことはまずなかったし、あったとしても簡単なミス程度だった。他の生徒は少しミスしただけで「お前は努力が足りない。最低だ」と怒鳴られていたけれど、ぼくは滅多にミスしなかったからなのか、「+と-が違う」などと指摘されるだけだった。

 

元々壊れていたぼくのこころは少しずつ、少しずつ、より粉々になっていった。過食をやめられなくなった。わざと鼻血を出して試験管に溜めて眺めていた。柱や壁を幾度となく殴った。手に痣ができた。仏壇にろうそくを灯して一日中奇声を発していた。橋の手すりに足をかけて飛び降りようとした。1日に30回以上嘔吐した。慢性的な頭痛と目眩と腹痛に悩まされた。

 

死にたかった。死にたくてたまらなかった。

 

2013年の9月に修学旅行があった。博物館が臨時休館で、先生はAを怒鳴り散らした。Aは東大寺の雑踏で泣いた。金閣寺から清水寺への行き方に文句をつけられ、ぼくが怒鳴られた。理由は「歩きたくないから」だった。清水寺では、バスになかなか乗れなくて「腹が減った」と怒鳴り出した。この人は、赤子なのだと思った。哀れな哀れな赤子。

 

修学旅行が終わった後の週末、ぼくは堤防から飛び降りようとした。勇気が足りなかった。今でもあの時に死んでおけば良かったのではないかと強く思うことがある。

 

それでも、卒業すればこの苦しみは終わると信じて疑わなかった。

 

2014年3月、卒業した。

苦しみは終わらなかった。

 

高校では教師が少し大きな声を出すだけで全身が固まり、動悸がし、呼吸が苦しくなった。数学の授業中にあるはずのない怒鳴る声が聴こえた。常にびくびくして生きていた。夜には頻繁に怒鳴られる夢を見た。日中に過去のことを鮮明に思い出してパニックになることもあった。苦しくて苦しくてたまらなかった。自殺を考え、毎晩のように寮の屋上に行き、飛び降りようとした。寮の目の前にあった川に飛び込もうとしたこともあった。近くの駅は自殺の名所だったから、そこでも線路に飛び込もうとした。

 

───全てできなかった。

 

2年の時、同級生が死んだ。

ぼくのこころは完全にぶっ壊れた。この頃の記憶は曖昧だ。ただ、目に入るもの全てが尖って見え、先端が怖くてたまらなかった。先生に指指されているように感じた。頭の中で散々怒鳴り散らされた。先生の歪んだ顔が見えることもあった。クラスメイトの泣き声も聴こえた。聾学校にさえ通っていなければ、こんなことにはならなかったのではないか。自分が卒業した聾学校を激しく、とても激しく憎んだ。今でもそれは変わらない。

 

卒業してから約6年が経った。未だに先生は夢に出てきて、ぼくを怒鳴り散らす。でも、少しずつ変わっていることがある。以前は怒鳴られて震えているばかりだったが、最近は怒鳴り返したり、空を飛んで逃げたりすることができるようになった。それでも苦しいことに変わりはない。

 

いつになったら、この悪夢から解放されるのだろうか。

手話のこと

ぼくは聾学校という、耳が聞こえにくい人が通う学校で育った。そこには色々なコミュニケーション手段があった。

 

キューサインといい、子音だけを手で表し、母音を口で表すもの。だから覚えなくてはならないのは、あかさたなはまやらわ、ん、その他濁点などだけだった。

そして手話。これは有名だろう。

また、声だけで話すこともあった。

 

ぼくはキューサインが好きだったし、一番自然なコミュニケーション手段だと思っていた。だが、それは受け容れられることがなかった。クラスメイトはぼくを除いて3人。そのうち2人は手話が好きだった。もう1人はぼくと同じでキューサインがメインだった。だからぼくは手話を使うクラスメイトとあまり話さなかった。とはいえ、人が嫌いだったからキューサインを使うクラスメイトとも話さなかったけれど。

 

ある日、道徳か学活か何かの時間に、教師に聞かれた。「みんなは手話とキューサインどっちがいいか」と。2人は迷わず手話だと答えた。ぼくはうまく答えられなかった。もう1人は2人と教師に怖気付いてしまった。そして、その日からぼくらは自分のいる教室の中でキューサインを禁じられることになった。キューサインを使えば怒鳴られた。

 

ひとつ、忘れられないことがある。ぼくが校外学習で移動中、指文字の練習をしていたら「嫌味っぽいからやめてほしい」という意味のことを言われ、教師にも怒られたことがあった。押し付けられたものを嫌々練習していたから、なのだろうか。

 

それからの日々は散々だった。教室の中では手話を使わされた。発音指導の先生の前ではキューサインを使わされた。寄宿舎では声だけで話さなくてはならなかった。自分自身の、安心できるコミュニケーション手段などなくなってしまった。ちなみに母親は手話を押し付け、父親は手話を嫌った。

 

結果としてぼくは分裂した。手話ができる人格と、手話が怖くてできないぼく。勿論その人格が生まれるのには他にも理由があったはずだろうけれど。

 

ぼくはあれから10年以上経った今でも手話が怖いままだ。慣れた人の手話ならまだ耐えられるが、街中で手話を見かけると恐ろしくて逃げてしまうことがある。それもまた差別や偏見と呼ばれてしまうのかと思うと悲しくなる。

 

手話に罪はない、と人に言われたことがある。頭では分かっていても、そう簡単には変えられない……。

人格によって違うこと

消えた人格も含めて全部で11の人格がいる。

それだけいると、それぞれ個性もはっきりとしてくる。

 

例えばゆたか。

ゆたかは誰よりも目が見えていて、眼鏡も要らない。白杖がなくてもすたすた歩いていける。(危ないから使わせるようにはしているけれど) 補聴器も、ゆたか専用のプログラムがある。ぼくと同じプログラムだとうるさくて頭痛がするらしい。猫のお腹に顔を埋めても全く問題ない。甘酒が大嫌い。電車の車内放送はほぼ完璧に聴き取れるし、電話が大好き。身体の不調に敏感。

 

そしてぼく。

ゆたかほどに視野は広くない。眼鏡はあってもなくても良い。白杖も本当は使いたくはない。危ないから使うようにはしているけれど。補聴器は、ゆたかより6dB大きいプログラムにしてある。甘酒は飲める。38度を超える熱があっても割と平然としている。

 

そして消えたゆたか兄。

恐らく一番視野が狭い。ゆたか兄の視野を、ゆたか兄が消えた後に体験する機会があったけれど、あまりにも狭くてこれでは街中を歩くのも大変だろうと感じた。よく段差に躓くひとだった。白杖がないと外出できなかった。耳はぼくとゆたかの中間だった。電車の車内放送は聴き取りづらいようだった。電話も苦手だった。甘酒が大好きだった。猫が近くにいるだけで呼吸困難になったり、目がかゆくて赤くなったりした。暑さ寒さをほとんど感じられず、真冬にシャツ1枚で外に出かけていた。

 

同じ身体なのに、なぜ目の見え方、耳の聞こえ方、アレルギー、温度や身体の不調の感じ方がこんなにも変わるのだろうか。とても不思議なことだと思う。周囲からも、「今日はすごく耳の聞こえがいいね」などと指摘されたことがあるほどだ。

 

でもこれを逆に活用することがある。ぼくらは病気のせいか、慢性的に38度前後の熱がある。最高だ38度7分にまで上がったことがある。でもぼくは平然としていられるから、東京の病院まで長距離移動をするときにぼくが出る。ぼくが駄目でも、他の鈍感な人格が出てくれることもあった。人混みを歩くときは比較的目が見えているぼくかゆたかが出る。電車が止まったときはゆたかに通訳してもらう。猫の世話はゆたかがやっている。

 

便利と言えば便利なのかもしれない。ゆたかがはっきりと出てくるようになったのは今年4月からのことだが、それ以前は「耳はこれより良くなることはない」と思い込んでいた。それなのにゆたかはとてもよく聴こえる。目にしたってそうだ。何があっても視野が広がることはないと思っていたのに、ゆたかはそれなりに広い。ぼくにはその見える世界や聞こえる世界を体験することができないが、情報を仕入れてもらうことはできるのだ。

 

なぜ、ゆたか兄の視野は比較的狭かったのか。耳が聴こえにくかったのか。それはきっと過去のトラウマが関連しているのだろうと思う。

 

例えば「お前は最低だ」という言葉が聴きとれるのと「おあえああいえいあ」という風にしか聴き取れないのとでは心に受けるダメージが違うと思う。

例えば誰かが誰かを殴る場面が見えるのと、見えないのとでも心に受けるダメージは違うと思う。

 

きっとゆたか兄はそんな風にして自分の世界を閉ざしてしまったのだろう。それはとても悲しいし、加害者を許してはならないのだと強く思う。