解離と聴覚障害

今日、補聴器店で聞こえのチェックをした。スピーカーから「あ」「ら」「む」など様々な音が出て、それを書くというものだ。

 

補聴器店の店員さんに頼み込んで、僕とゆたか、それぞれ別々に検査してもらえることになった。というのも、僕とゆたかでは耳の聞こえが違うので、補聴器のプログラムもそれぞれ設定しなくてはならず、そのために店員さんには人格のことを話してあったからだ。

 

結果は予想以上だった。僕はそもそも聴き取ることができず、✖︎だらけだった。一番良い項目でも40%だった。ゆたかは全てに回答することができた上、間違えた項目にしても「し」を「い」と聴き間違えたり、「よ」を「ろ」と聴き間違えたりといった「近い間違い」がほとんどだった。ゆたかは僕と同じ項目で70%であった。

 

僕は検査を受けながら、ああ、これは僕の心が聴き取ることを拒否しているのだと実感していた。本当だったら、僕の耳はもっと聴こえるはずなのに。ゆたかが聴こえているのだから。

 

なぜ僕の心は拒否するのだろうか。きっとそれは幼少期、祖母や親や教師に頻繁に怒鳴られたり酷い言葉を浴びせられたりしていたからだろう。でもあの日々から一体何年経っただろう。もう随分と長い月日が過ぎ去ったはずではないか。なのになぜまだ拒否しなくてはならないのだろう。

 

当然だが、40%しか聴き取れないと日常生活には大きな支障が出る。電話は慣れていない人とはほぼできず、幼いゆたかに任せっきりである。電車が止まった時の車内放送もゆたかに聴き取ってもらうしかないのだ。もっと言えば専用のマイクがないとカウンセラーと話すことさえ難しくなる。ちなみにそのマイク、送受信機合わせて30万円を超える。ゆたかはそれがなくてもコミュニケーションが円滑にできる。

 

もしも、暴言や怒鳴り声に曝されていなかったら。もっと聴こえていたのではないかと思う。

 

ゆたかに任せっきりであることも申し訳ないし、負担が大きいと思う。僕の耳が聴こえていれば良かったのに。