とある教員のこと

ぼくらが6歳の時、聾学校に新しい教師が来た。巨体の男性だった。当時40代半ばだったろうか。厳つい顔だった。

寄宿舎に来た時はよく一緒に遊んだ。トランプとかウノとか、そんな遊びだったと思う。一見怖そうだけど悪い人ではないと当時は感じていた。先生は中学部担当だったから、寄宿舎以外の場所では接点が全くなかった。

 

ぼくらは中学生になった。先生は数学担当だった。初めは生徒が関心を持てるようにと、面白く分かりやすい授業を心がけているように見えた。ぼくは元々知っていることばかりだったから、そこまで面白いとは感じられなかったけれど。少なくともこの時点でぼくは先生のことが嫌いではなかった。好きでもなかった。

 

中学部3年生の人たちが卒業した。校長先生が替わった。厳しい男性から、優しい女性の校長になった。

 

そして、先生は豹変した。突然の出来事だった。毎日のように「お前らは最低だ」「お前らは馬鹿だ」と延々と怒鳴り散らしてきた。特に成績の悪い生徒をターゲットにしていた。ぼくは怒鳴られたないために、こころを殺されないために、勉強し続けた。抑うつで勉強どころではない時期もあったけれど、成績は下がらなかった。いっそ下がって欲しかった。下がればこの苦しみが、痛みが、憂いが表面化すると思った。

 

先生は、テストの点が悪い生徒から順番に指差して答えさせようとした。Aが一番悪かった。Aは何一つ答えられなかった。IとYは入れ替わることがあったけれど、どちらにせよ答えられなかった。そしてぼくが、R(以前の本名)と呼ばれ、指を指されて答えさせられた。答えられないことはまずなかったし、あったとしても簡単なミス程度だった。他の生徒は少しミスしただけで「お前は努力が足りない。最低だ」と怒鳴られていたけれど、ぼくは滅多にミスしなかったからなのか、「+と-が違う」などと指摘されるだけだった。

 

元々壊れていたぼくのこころは少しずつ、少しずつ、より粉々になっていった。過食をやめられなくなった。わざと鼻血を出して試験管に溜めて眺めていた。柱や壁を幾度となく殴った。手に痣ができた。仏壇にろうそくを灯して一日中奇声を発していた。橋の手すりに足をかけて飛び降りようとした。1日に30回以上嘔吐した。慢性的な頭痛と目眩と腹痛に悩まされた。

 

死にたかった。死にたくてたまらなかった。

 

2013年の9月に修学旅行があった。博物館が臨時休館で、先生はAを怒鳴り散らした。Aは東大寺の雑踏で泣いた。金閣寺から清水寺への行き方に文句をつけられ、ぼくが怒鳴られた。理由は「歩きたくないから」だった。清水寺では、バスになかなか乗れなくて「腹が減った」と怒鳴り出した。この人は、赤子なのだと思った。哀れな哀れな赤子。

 

修学旅行が終わった後の週末、ぼくは堤防から飛び降りようとした。勇気が足りなかった。今でもあの時に死んでおけば良かったのではないかと強く思うことがある。

 

それでも、卒業すればこの苦しみは終わると信じて疑わなかった。

 

2014年3月、卒業した。

苦しみは終わらなかった。

 

高校では教師が少し大きな声を出すだけで全身が固まり、動悸がし、呼吸が苦しくなった。数学の授業中にあるはずのない怒鳴る声が聴こえた。常にびくびくして生きていた。夜には頻繁に怒鳴られる夢を見た。日中に過去のことを鮮明に思い出してパニックになることもあった。苦しくて苦しくてたまらなかった。自殺を考え、毎晩のように寮の屋上に行き、飛び降りようとした。寮の目の前にあった川に飛び込もうとしたこともあった。近くの駅は自殺の名所だったから、そこでも線路に飛び込もうとした。

 

───全てできなかった。

 

2年の時、同級生が死んだ。

ぼくのこころは完全にぶっ壊れた。この頃の記憶は曖昧だ。ただ、目に入るもの全てが尖って見え、先端が怖くてたまらなかった。先生に指指されているように感じた。頭の中で散々怒鳴り散らされた。先生の歪んだ顔が見えることもあった。クラスメイトの泣き声も聴こえた。聾学校にさえ通っていなければ、こんなことにはならなかったのではないか。自分が卒業した聾学校を激しく、とても激しく憎んだ。今でもそれは変わらない。

 

卒業してから約6年が経った。未だに先生は夢に出てきて、ぼくを怒鳴り散らす。でも、少しずつ変わっていることがある。以前は怒鳴られて震えているばかりだったが、最近は怒鳴り返したり、空を飛んで逃げたりすることができるようになった。それでも苦しいことに変わりはない。

 

いつになったら、この悪夢から解放されるのだろうか。