子ども人格として生きるということ

ぼくは20歳の身体の中にいる、10歳の子ども人格だ。でも語彙量はきっと大人に匹敵する。アナログ時計も読めないし、二次方程式も分からないけれど、言葉ならたくさん知っているし、自在に操ることができる。

 

ぼくは大人のふりをして外の世界の人と話す。でも、少し抽象的な話になるとついていけなくなることもある。大人じゃなくて子ども人格なんです、と説明しても「10歳でいる方が楽なんだね」「10歳だと思うんだね」と言われてしまう。違うんだ、そうじゃないんだ、ぼくは以前、6歳のままずっと時間が止まってたんだ。そしてそれは思い込みなんかじゃない。他の人格が手を差し伸べてくれてようやく成長できて10歳になったんだ。

 

そして、敢えて言うなら10歳でいることは全然楽じゃない。むしろ身体の年齢と同じになりたい。だって周囲はどうしてもぼくを大人として扱うのだから、大人としての知識がもっともっと欲しいし、複雑な話を理解出来るようになりたい。

 

今ぼくらの中で起きているのは4歳の「ゆたか」と10歳のぼくだけだ。ぼくは料理が苦手だけど、ゆたかはサーターアンダギーやスコッチエッグも作ることができる。ゆたかは難しい言葉が分からないけれど、ぼくはある程度理解できる。ぼくは耳が聴こえにくいけれど、ゆたかがぼくの耳になってくれる。ゆたかは掃除が嫌いだけどぼくは苦痛ではない。

 

そのようにして、ぼくとゆたかは助け合いながら生きている。大人の人格が全員寝ているということはとても心細いけれど、出番がないからなのだと思うことにしている。