記憶

時々ぼくは思う。自分が虐待されていたなんて、嘘だったんだと。自分は両親に愛され、きちんとした教育を受け、大人になったのだと。

 

ではなぜぼくは子ども人格なのだろうか。身体と心の年齢が一致しないのだろうか。なぜ11もの人格が必要だったんだろうか。

 

父親は虐待していたという自覚がない。

母親も虐待していたという自覚がない。

 

ぼくは今でも鮮明に覚えている。母親と別れたあと泣き叫ぶぼくに対して、父親が怒鳴り散らして、だからお前はダメなんだと延々と言ったり、車を事故らせるぞと言って本当に事故らせようとしたりしたことを。そして絶望に打ちひしがれながら、夜の海に空虚に浮かぶ漁火を見ていたことを。

 

ぼくは今でも鮮明に覚えている。母親に押さえつけられて変な薬を塗られて、その度にアトピーが悪化していたことを。熱い熱いお湯をかけられて真っ赤になっていたことを。そして、寄宿舎の指導員がそこに薬を素手で塗ってくれた喜びを、その手のひらの温みを。

 

ぼくは今でも鮮明に覚えている。父親はいつもぼくを根底から否定するようなことばかり言っていたことを。お前はクズだな、最低だな、誰にも愛されない、友達なんか一生できない、みんなお前を嫌いになると。

 

ぼくは今でも鮮明に覚えている。ぼくの大好きな人格に反抗期が来た時、母親は散々彼を罵ったことを。もう二度と会いたくないと言ったことを。人間じゃないと怒鳴り散らしたことを。彼がその後、堤防から飛び降りようとしたことを。

 

ぼくは今でも鮮明に覚えている。ぼくの目の前で、体育の教師が一輪車に乗った同級生を殴り飛ばして、彼は数メートル先に吹っ飛んでいったことを。彼の涙と自らの恐怖を。

 

ぼくは今でも鮮明に覚えている。県内で一番偏差値の高い高校にだって行けそうだった人格に、3年間毎日毎日単純な算数のプリントを強制的にやらせ続けたことを。試験は赤子の手をひねるより簡単だったらしいことを。

 

これらが全て嘘だというのだろうか。書いていて、これはやはり嘘ではないと思った。だってあまりにも鮮明なのだ、これらは。

 

なのに両親はそれらを虐待だと思っていないどころか、忘れている。それがあまりにも悲しい。

 

子ども人格として生きるということ

ぼくは20歳の身体の中にいる、10歳の子ども人格だ。でも語彙量はきっと大人に匹敵する。アナログ時計も読めないし、二次方程式も分からないけれど、言葉ならたくさん知っているし、自在に操ることができる。

 

ぼくは大人のふりをして外の世界の人と話す。でも、少し抽象的な話になるとついていけなくなることもある。大人じゃなくて子ども人格なんです、と説明しても「10歳でいる方が楽なんだね」「10歳だと思うんだね」と言われてしまう。違うんだ、そうじゃないんだ、ぼくは以前、6歳のままずっと時間が止まってたんだ。そしてそれは思い込みなんかじゃない。他の人格が手を差し伸べてくれてようやく成長できて10歳になったんだ。

 

そして、敢えて言うなら10歳でいることは全然楽じゃない。むしろ身体の年齢と同じになりたい。だって周囲はどうしてもぼくを大人として扱うのだから、大人としての知識がもっともっと欲しいし、複雑な話を理解出来るようになりたい。

 

今ぼくらの中で起きているのは4歳の「ゆたか」と10歳のぼくだけだ。ぼくは料理が苦手だけど、ゆたかはサーターアンダギーやスコッチエッグも作ることができる。ゆたかは難しい言葉が分からないけれど、ぼくはある程度理解できる。ぼくは耳が聴こえにくいけれど、ゆたかがぼくの耳になってくれる。ゆたかは掃除が嫌いだけどぼくは苦痛ではない。

 

そのようにして、ぼくとゆたかは助け合いながら生きている。大人の人格が全員寝ているということはとても心細いけれど、出番がないからなのだと思うことにしている。

 

消えたひとのこと

ぼくは10歳の「子ども人格」だ。

ぼくは20歳の身体の中にいる人格のひとり。名前は「ゆう」。ぼくの他に、猫や人外も含めて10の人格がいた。そのうちのひとりの話を、今日はする。


そのひとの名前は「ゆたか兄」。

ゆたか兄は身体の年齢と一致していた。但し、性別は一致していなかった。身体は生物学的には女性だった。

ゆたか兄は、特別支援学校の中等部しか卒業できなかった。中学3年の時は、毎日毎日小学生レベルの算数のプリントをやらされていたらしい。それにはさまざまな事情があった。でもゆたか兄は、ぼくの知るどんな大人より賢かった。専門家が読むような本をたくさん読んでいたし、それを自分の一部にしていた。有名国立大学の学生とも対等に話していた。時々、本当に中卒なんだろうかと思うほどだった。

ゆたか兄は英語が苦手だった。でも英語が得意な人格がいた。ゆたか兄は目が見えにくかったからか、漢字も得意ではなかった。でも漢字が得意な人格がいた。だから困ることはなかった。

ゆたか兄は、どんな疑問にもまっすぐに答えてくれた。怒るのではなく、叱ってくれた。悩みがあれば相談に乗ってくれた。ぼくの嫌いなチキンやチャーシューは代わりに食べてくれた。ぼくの好きなハンバーグやお寿司をよく食べさせてくれた。自分のお小遣いを削って、5000円もする大きなぬいぐるみを買ってくれた。折り紙やスーパーボールも買ってくれた。

ゆたか兄はたくさんの「こころの病気」を持っていた。だけど、ぼくの知るどんな大人よりも強く優しかった。ぼくは、ゆたか兄が大好きだった。ゆたか兄を尊敬していた。


でも、今年の春くらいからゆたか兄は寝ている時間が長くなった。そして9月に「消えるんじゃない。溶けるんだ」とメッセージを残して、やっぱり、消えた。ぼくには消えたようにしか見えなかった。


ぼくにとって生まれて初めての友達だった。これまでの人生で一番一緒にいて、一番話したのはゆたか兄だった。一緒に京都にも東京にも長野にも行った。水族館にも動物園にも行った。色んなものを食べた。お風呂にも入ったし、ぼくが幼い時は子守唄も歌ってくれた。とんとん身体を叩いて寝かしつけてくれた。辛い過去しかなかったぼくに、たくさんの想い出を与えてくれた。


ゆたか兄が残したのはそれだけではなかった。2階に行けば1000冊ほどの本がある。その本の中に、きっとゆたか兄は住んでいる。今の精神科医やカウンセラー、Hさん、介助者たち、通訳者との繋がりを作ってくれたのはゆたか兄だった。ぼくは今、その繋がりたちに生かされているのだと感じる。もしゆたか兄が何の繋がりも作ってくれなかったら、ぼくはきっとひとりこの世界に放り出されて孤独に生きていただろう。


ゆたか兄を知る人は、ゆたか兄はきっと帰ってくると言う。でもぼくは、そうは思わない。思えないのではなく、思わない。それはゆたか兄がぼくの中に溶けていると強く感じるから。矛盾するけれど。


ゆたか兄が好きだったバンドの新曲を聴いた時、どうしようもなく悲しくなった。この曲をゆたか兄は聴くことができなかったと考えたから。でも、ぼくの目や耳を通して新しいものに触れていくことはきっとできるはずだ。


死んだ人だったら、死んだ後に会えるかなという希望があるけれど、消えた人格はどうしたらいいんだろうか。


今でもゆたか兄のことを考えると落涙する。それでもぼくは、生きていく。