amazarashiと人生

amazarashiと自分の人生について書く。

 

13歳の11月17日、amazarashiの「つじつま合わせに生まれた僕等」を聴いた。同日に網膜色素変性症であるという手紙が届いた。光を失うかもしれない病であるということを知った日に、大きな光に出逢ったのだと後に思うようになる。初めて聴いた時は自分を肯定されたように感じた。浄化された。それからどんどんはまっていった。「未来づくり」を聴いた時は、自分のことを肯定して良いのか?!  と、ものすごい衝撃だった。自分のことを肯定するのは許されざる行為だと思った。12月になった瞬間に「クリスマス」を聴いた。常に自分は罪深いものだと思っていたから、何だか安心していた。奇跡も好きだった。自分の思想と一致していたから。

 

14歳になる瞬間に「14歳」を聴いていた。本当に虚しくて悲しくてどうしようもない日々だった。「空っぽの空に潰される」のMVが衝撃的過ぎた。この頃は聾学校での虐待も酷かった。死ぬことしか考えてなかった。ぼろぼろだった。ワンルーム叙事詩を聴きながら聾学校を燃やすことを夢想して生きていた。ジュブナイルが好きだった。君が君を嫌いな理由を……のところ。しらふを読み続けていて、中村橋に行きたいと繰り返し思うようになった。それが希望だった。いつか中村橋に行く日を夢見て生きていた。僕も人が怖くて怖くて、いつも部屋から出られずに苦しんでいた。でもひろむさんのおかげで孤独ではないと思えた。だから生きていられた。11月20日水曜日、あんたへが発売された。それまで涙も枯れたと思っていたのに、久々に涙が溢れた。精神は限界に達していた。毎週末のように橋に通い、飛び降り自殺をしようとしていた。

 

15歳。14歳ではなくなった。毎日のようにamazarashiを聴いていた。いや、今もそうなんだけど。とにかく色んなものと戦ってた。数学教師とも戦ってた。指導員とも戦ってた。世界と戦ってた。自分自身と戦ってた。amazarashiはある種の戦友みたいな存在だった。高校に進学したけど、対人恐怖が酷くて寮ではほとんど引きこもりだった。こんな世界くそったれだと唾を吐いた。いつも心の中に殺意を抱えていた。でもしらふの主人公だってそうだったんだからと自分に言い聞かせた。週末に初めて中村橋に行った。生まれて初めて安心出来る居場所を見つけた。高田馬場も行ったし、五反田も行ったし、新宿も行ったけど、1番はやはり中村橋だった。10月頃に夕日信仰ヒガシズムが発売された。いつもと変わらずこんな世界くそったれくそったれと思いながら聴いてた。穴を掘っているとか後期衝動が好きだった。時々入水自殺するために川に行ってたけど、夕日が綺麗でヒガシズムをよく聴いた。屋上から飛び降りようとした時に「夏を待っていました」が流れて、自殺を思いとどまったことがあった。秋くらいから中村橋の人達と関わるようになり始めた。学校、寄宿舎、家以外にそういう場ができたことが何より嬉しかった。あと、過食も酷かったなあ。吐くために食べていたっけ。

 

16歳。「季節は次々死んでいく」を聴いて母と絶縁した。それから母には一度も会ってない。希死念慮はこの時も酷いままだった。本気で入水自殺しかけたこともあったけれど、夕日を見てヒガシズムを聴いてやめてしまった。やめて良かったのかなあ。今も分からないや。その後に公表された自虐家のアリーにも救われた。結局僕は母を愛してるんだなあと思った。スキー合宿で雪に照り返す夕日を見て感動した。東京喰種も読んでいた。毎晩屋上に通って自殺しようとしてた。でも「そんな勇気ならない方が良かった」が頭から離れなくて死ねなかった。死にたかったのに。3月に千川通りの桜を夜に見てすごく嬉しかった。生きてて良かったと心から思った。盆提灯も綺麗だった。梅雨に大切な人を喪った。二度と帰って来なかった。どこにいるのも苦しくて、中村橋に行った。お気に入りのラーメン屋のラーメンは、いつも通りの味で待っていてくれた。いつも笑顔の文房具屋のおっちゃんも、いつも通りの笑顔で待っていてくれた。そこにいる人たちの温かさに涙が出た。ビヨウヤナギを千川通りで見つけて、強く生きようと思った。土砂降りの雨の中、練馬区立美術館前の小さな公園のベンチで雨曝しになりながら日記に父との葛藤について書き殴った。涙で濡れているのか雨で濡れているのか分からなかった。しばらくして僕の精神は完全に崩壊した。ベッドの上に乗れなくて、ベッドの下に布団をしいて、カーテンを締め切って、amazarashiを聴いた。中島美嘉のtodayも聴いた。僕が死のうと思ったのはも聴いた。風呂に引きこもったこともあった。奇声を発しまくった。米粒さえ食べられなかった。何を食べていたのだろうか。その後完璧な不登校になった。8月に3Dライブに行った。パニック発作との戦いだったが、かなり印象に残っている。amazarashiだけは毎日聴いてた。ゲーム依存になって廃人みたいな生活を送ってた。

 

17歳。精神科が合わなくてどうしようもなかった。何を相談しても分からない分からないの一点張り。虚無病もこの頃だっけ?  外で寝転がりながら聴いてた。星々の葬列と僕が死のうと思ったのはが特に好きだった。ライブで「どうか、生き残ってくれないか」と言われ強く生きようと思い直した。でも死にたかった。前のカウンセラーには「ヤマアラシ?  のライブなんて……療養中なのに……」とめちゃくちゃ怒られた。今となっては懐かしい。カウンセラーとは相性が良かったけど、ヤマアラシかよ……となった。

 

18歳。ようやく合う精神科に転院できた。命にふさわしいと数え歌がこの頃。すごく好きな歌。精神科に出逢ったことを鮮明に思い出せるから。主治医にとても深刻なトラウマだから時間をかけてゆっくり治していきましょうと言われたのをよく覚えている。ユニカビジョンも見に行ったっけな。中村橋はこの頃も当たり前のように通い続けていた。前のカウンセラーは「また中村橋〜?」みたいな感じだったけど、今のカウンセラーは「安心できる場所があるのはいいことですね」みたいな捉え方。豊洲のライブに行った。この頃にはそこまで人は怖くなくなっていた。パニックもそこまでなかったように思う。理論武装解除も行った。懐かしい。この頃は精神的に安定していた。

 

19歳。ひろと同い年。女性名を、忌まわしい過去がまとわりついた名前を捨て去った。清々した。少しamazarashiから遠ざかっているような気もしていた。でも日本武道館で鷲掴みにされた。独白に激しく共感した。痛いほどに。この頃には希死念慮もあまり強くなくなっていた。「前に進むために理由が必要なら 怒りであれなんであれ 命にふさわしい」という言葉を大切にしていた。

 

20歳。人格交代が激しく、主人格が消えて僕が主人格になった。元主人格のことを考えながらさよならごっこを聴いていた。本当に、さよならの遊びだったら良いのにと今でも思う。カラオケで歌っていたらパニックになって大泣きした。基本どの人格もamazarashiは好きだなあと気づく。元主人格がいるような気がして、色んなamazarashiの曲を聴いていた。

 

21歳。中村橋はどんどん大切な場所になっている。もしamazarashiがなかったら、出逢うことはなかったのだろうと思うとぞっとする。もう中村橋に住むつもりで練馬区役所に行ったりとかしてる。物件もちょっと見たりとか。amazarashiはもう僕の一部だなあと思う日々。

悪夢

今朝、怖い夢を見た。

僕は母親の実家に居た。母親と何か口論になって、二度と会いたくないと叫ばれた。僕は深夜に皆が寝静まった時に家を飛び出して、最寄り駅まで行ったが、財布を忘れたことに気が付き、父を呼んで、父と共に実家に戻って荷物をまとめた。それが母に見つかった。僕は空を飛んだ。どこまでもどこまでも高く。でも気を抜くと電線くらいの高さになってしまう。いとこと伯父が僕を探しているのが見えたから、もっと高く高く飛んで行った。自分では完璧にコントロール出来ないけれど、空を飛ぶのはとても楽しかった。土砂降りの雨が降っていた。どこかの廃病院で父親と待ち合わせて、父親の車に乗った。いざ遠くへ逃げようとしたら、後ろに母が居た。僕も父も動揺した。僕は母の心臓を鷲掴みにして、取り外した。心臓があったところは黒い穴ぼこになった。母の心臓は、味噌で出来ていた。母は動かなくなった。父は怯えて、死んでなんかいないと繰り返し叫んだ。でも母は確かに死んでいた。

 

僕は昔、母が大好きだった。なのに何故今、母を殺す夢を見てしまうのだろう。何故母と上手くやれなかったのだろう。もう駄目だ。もう無理だ。そうやって何度泣いただろうか。

 

僕は今、12歳だ。これからの人生は途方もなく長く続いていて、死ぬまで母に会わないということがどのようなことなのか、とてもではないが想像もつかないのだ。怖いのだ。

知的障害者との関わりについて

僕は6歳の時、知的障害を伴うダウン症の15歳の女性と同室で生活していた。

 

彼女は殆どコミュニケーションができなかった。僕は幼心に、なぜこの人は顔が違うのだろう、変な声を出すのだろう、僕より子ども扱いされるのだろう、行動がおかしいのだろうと思ったし、違和感があった。それでも口にできるような雰囲気ではなかった。口にすれば、差別だと叩かれそうだったから。

 

はっきり言えば6歳の僕にとって、全く意思疎通を図れない赤の他人と1年間同居するのはそれなりに辛いことだった。なぜ言葉が通じないのか、その理由さえ教えてもらえなかったのだから。言葉の通じない人と同居していた僕は、自分の中の世界ばかり豊かになった。空想ばかりしていた。

 

今でもあの時どうすれば良かったのかを考える。せめて、知識が欲しかった。染色体異常によるものだとか、生まれつき苦手なことがあるとか、そういったことを僕は知りたかった。説明されれば理解しようと務めることはしたはずだ。当時は周囲に子ども向けの本ばかりで大人向けの本を読むことは禁じられていたし、インターネットは現在ほど普及していなかったから自ら情報を得る術がなかった。

 

彼女とは別に僕が小学1年の時、4年の男子生徒が居た。彼も知的障害者だった。知識量は6歳の僕よりも不足していたと思う。僕は彼と話す時、彼の知識量に合わせていた。難しい話は避け、平易な言葉遣いを心がけていた。彼が僕の「変なところ」に触れば、やんわりと「やめて」と伝えた。それでも彼は泣いた。そうすると、僕が怒られた。そのうち、変なところを触られるのを拒むのをやめた。それがたとえ彼以外の人であったとしても。嫌なことを嫌と言えば怒られるから、嫌なことを嫌と言わなくなった。それが、ただひとつの生き残る術だと勘違いしてしまった。彼を嫌うことさえ、許されなかった。僕は彼が人間的に嫌いだったが(そもそも僕は人間自体があまり好きではなかった)、それさえも教師からすれば差別らしかった。僕は彼が好きな振りをした。それは彼に対してとても失礼で不誠実な行いなのだと常に自分を責めた。だから僕は周囲の一人一人にとって都合のいい人間をいくつもいくつも作った。彼が好きで、彼と遊ぶのが心底楽しい僕。彼が大嫌いで、激しく憎んでいる僕。手話が得意な僕。手話が怖くて見るのも耐えられない僕。ママに甘える僕。ママを守るために盾になる僕。寡黙な僕。多弁な僕。感情が豊かな僕。無感情で無表情な僕。

 

そのうち、どれが僕なのか分からなくなった。いつもいつも、映画を見ているようだった。安っぽくて人気のない映画。薄い膜が張ったように見える世界。だからよくフリーズして、周囲を驚かせた。全く動けなくなるのだ。目の前で指を振られていても、分からないのだ。反応できないのだ。時には記憶を失い、補聴器という精密機器をぶん投げたことさえあった。

 

勿論こうなったのは彼や彼女自身に非があるわけではなく、周囲の大人に非があるのだと思う。適切な知識を与え、適切な距離感を保てる環境があればそれで良かっただけなのだ。また、僕自身にも先天的に解離しやすい傾向があったのかもしれない。家庭環境の悪さがそれに拍車をかけたのだと思っている。

 

今でもあの日々のことをよく考える。

今年の目標

杉山登志郎先生と熊谷先生の本を読む

→最近本を読めてないなあ……
・2/15まで107441円で過ごす

→膀胱炎の薬が高くてピンチ
・寝る時間をコンパクトにする

→腹痛で寝込んでる日が多い
・管理的な食生活を身につける

→全人格の協力を要する
・年内に電気炉とその他諸々買う

→貯金中。メルカリもやっている
・自己犠牲は程々に

→難しいね
・精神科の通院頻度を下げる

→3月から2週間に1回にする予定
・不要なものを減らす

時々断捨離をやる

 

色々頑張ろう。

解離と聴覚障害

今日、補聴器店で聞こえのチェックをした。スピーカーから「あ」「ら」「む」など様々な音が出て、それを書くというものだ。

 

補聴器店の店員さんに頼み込んで、僕とゆたか、それぞれ別々に検査してもらえることになった。というのも、僕とゆたかでは耳の聞こえが違うので、補聴器のプログラムもそれぞれ設定しなくてはならず、そのために店員さんには人格のことを話してあったからだ。

 

結果は予想以上だった。僕はそもそも聴き取ることができず、✖︎だらけだった。一番良い項目でも40%だった。ゆたかは全てに回答することができた上、間違えた項目にしても「し」を「い」と聴き間違えたり、「よ」を「ろ」と聴き間違えたりといった「近い間違い」がほとんどだった。ゆたかは僕と同じ項目で70%であった。

 

僕は検査を受けながら、ああ、これは僕の心が聴き取ることを拒否しているのだと実感していた。本当だったら、僕の耳はもっと聴こえるはずなのに。ゆたかが聴こえているのだから。

 

なぜ僕の心は拒否するのだろうか。きっとそれは幼少期、祖母や親や教師に頻繁に怒鳴られたり酷い言葉を浴びせられたりしていたからだろう。でもあの日々から一体何年経っただろう。もう随分と長い月日が過ぎ去ったはずではないか。なのになぜまだ拒否しなくてはならないのだろう。

 

当然だが、40%しか聴き取れないと日常生活には大きな支障が出る。電話は慣れていない人とはほぼできず、幼いゆたかに任せっきりである。電車が止まった時の車内放送もゆたかに聴き取ってもらうしかないのだ。もっと言えば専用のマイクがないとカウンセラーと話すことさえ難しくなる。ちなみにそのマイク、送受信機合わせて30万円を超える。ゆたかはそれがなくてもコミュニケーションが円滑にできる。

 

もしも、暴言や怒鳴り声に曝されていなかったら。もっと聴こえていたのではないかと思う。

 

ゆたかに任せっきりであることも申し訳ないし、負担が大きいと思う。僕の耳が聴こえていれば良かったのに。

人魂の生態

最近、虚ろな部屋という空想上の部屋に行くと青白い人魂が居る。虚ろな部屋は電球が裸で天井からぶら下がっていて、木でできた部屋だ。窓からは満天の星空が見える。しかし出入り口はなく、気温というものは存在せず、空気の流れさえない。

 

人魂は普段、僕の右斜め上に居る。歩くとついてくる。好きなひとのことを話すときだけピンクになる。大きくなって抱きしめてくれることもあるけれど、基本は僕の両手に乗るくらいの大きさ。人魂はどうやらゆたか兄らしかった。例えば一緒に本棚の整理をしているとき「お金に困ったらこの本を売りな。カウンセリング2回分にはなるから」「この食器はインザムードで、この食器は……」などとゆたか兄しか知り得ない情報を持っている。人魂は気温を感じられず、痛みも感じず、味も分からず、お風呂にも入らないしご飯も食べないし、声も出せないし、歩くこともできない。服は着ていない。ゆたか兄曰く今の自分は幽霊みたいなものらしい。

 

ゆたか兄は消えてからの4ヶ月間、別人格であるゆたかの目を通して世界を見ていたらしい。ゆたかにはその自覚がないらしいが。だから人魂とゆたかは同時に出現することができないようだ。

 

人魂と相談しながらゆたか兄のものを処分していった。メルカリに出したり捨てたりした。人魂はモノにあまり執着がないようだった。消えて仕舞えば全てないものになるのだから、と言い切った。

 

人魂はちぢみほうれん草のクリームパスタが食べたいと言った。味を感じられなくても、だ。

 

人魂はいつまでここに居てくれるのだろう。ずっと守護霊みたいにくっついてくれたら良いのに。

ママとお母さんのこと

母と縁を切った直後はかなりしんどい状態だった。主治医に「これからよほどのことがない限り会わない覚悟はあるのか」と繰り返し問い詰められて怖かったからというのもある。でもそれで踏ん切りがついた。本当に会わないのだと決められた。

 

僕はもう、ママの幸せを一番に願わない。自分の幸せを、自分の大好きなひとたちの幸せを一番に願うし、幸せになるためなら色々なことをやる。ゆたかを全力で守り、育てていく覚悟はある。僕はこれからの人生を、まず自分自身のために生きていく。自己犠牲は美しいかもしれないが、度を過ぎれば我が身を滅ぼす。

 

僕は、本当はママが大好きだった。優しくて、温かいママ。あまりに不完全なママ。僕は僕のことが世界で一番嫌いで、ママのことを世界で一番愛していた。いや、過去形ではない。今でもずっと愛しているのだ。それでも、昔のようにエネルギーが無限に湧いてこなくなった。枯渇した。もうママを支えることもできなくなったし、ママに関わることすら苦しい。

 

11歳になっても頑なにママと呼び続けるのは、僕にはお母さんと心の中で呼ぶひとがいるからだ。そのひとはママより長く一緒に居たし、ママより親らしくて、ママより優しくて、安定していて、温かくて、たくさん触れ合ったし、たくさん話した。そのひととは6歳から14歳までの8年間一緒に居た。

 

告白しよう。僕はママより「お母さん」を強く強く愛している。「お母さん」は今、死に至る病に侵されていると風の噂で聞いた。でも僕は「お母さん」に会えない。それにはあまりにも複雑な事情がある。ママに死ぬまで会えないことは、悲しくはない。既に5年以上会ってないのだ。別に構わない。でも「お母さん」に会えないことは、悲しくて悲しくてたまらない。

 

お母さんの子どもは、ゆうすけという名前で、僕と同い年だった。僕はその子が羨ましくてたまらなかった。だから、僕の名前はゆうになったのかもしれない。

 

ママには僕のことは綺麗さっぱり忘れて欲しいと心から思う。僕はママを不幸にする存在でしかなかったから。けれど、お母さんには僕のことをずっとずっと覚えていてほしい。忘れないでほしい。時々でいいから、思い出してほしい。会いたいと思っていてほしい。それがどんなにお母さんを苦しめるのだとしても、僕はお母さんに記憶され続けたい。

 

ママと縁を切って、お母さんにはもう会えなくて、僕にはこの先頼れる母というものがもうない。途方もなくて、孤独だと感じる。可愛い可愛いゆたかだって居るし、カウンセラーだって居るし、介助者も居るし、友人も居るし、色々な人たちに囲まれているのに、お母さんをどこまでもどこまでも求め続けている。孤独だと勝手に感じている。

 

もしも願いが叶うなら、もう一度だけお母さんに抱きしめられたい。